地味にスゴい140年の系譜!一橋大学を卒業した日本の有名実業家!



 

はじめに

一橋大学—日本屈指の名門として東京大学、京都大学、東京工業大学と並び賞されながらその存在は他の3校にくらべてかなり地味。しかし、創立以来140年の歴史の中で輩出してきた卒業生には日本のみならず世界の経済界で華々しい活躍をした卒業生がたくさんいます。今回はそんな卒業生の中から、自ら事業を興し成功をおさめた有名実業家たちを紹介します。

 


 

なぜ実業家が多いの??

0013_l
森有礼
画像出典元:近代日本人の肖像

一橋大学は現在、経済学部、商学部、法学部、社会学部の4つの学部を設置しています。しかしもともとは私立の「商法講習学校」という学校でした。後の初代文部大臣、森有礼(もりありのり)は、世界に通用する商学を日本に確立しようという意気込みをもってこの学校を設立。彼は海外情報通であり、明治維新前、薩摩藩の留学生に選ばれてロンドン大学で学んだ経験を持つ国際感覚の優れた人物でした。

1884年には農商務省という役所の直轄になり官営となりましたが、その後も一貫して商学、経済学中心の教育が行われました。東京大学が官僚を育成することを目的としていたのに対して、一橋大学は産業界のリーダーを育成することを目指していたわけです。

このCaptains of Industryの理念は今現在も受け継がれています。一橋大学出身の人物に実業家、財界人が多いのは、この教育方針からすれば当たり前のことと言えるでしょう。


 

一橋出身の有名実業家たち

 

(1)磯野長蔵 (1874-1967) 明治屋社長、キリンビール発起人

1437-01

画像出典元:TOKYOビル景

 

高級スーパーとしておなじみの明治屋の社長を務めながら、キリンビールを設立し、業界トップにまで育てたあげた磯野長蔵(いその ちょうぞう)氏は一橋大学の前身、高等商業学校の卒業生。

鳥取県倉吉市に呉服店の次男として生まれた磯野氏は、17歳の時、商人になることを志して東京高等商業学校を受験するために上京し、一年の浪人期間を経て合格。

卒業後は、輸入業を営む磯野商会(後の明治屋)に入社し、創業家に婿養子に入って家業をつぎました。その事業の一環として、当時三菱商会が販売していた「キリンビール」の総代理店を担当していた縁で「麒麟麦酒株式会社」の設立に参加することになりました。ここではイギリスで学んだ広告宣伝手法を使って積極的に販促活動を展開。ここで人々の関心を集めたのが「ナンバーワン自動車」と呼ばれるキリンビール宣伝カーです。これはスコットランドから輸入した自動車にビール瓶の形をした車体を付け、キリンビールの大きなラベルを貼り付けたものでした。ナンバーワンと呼ばれたのは警視庁登録番号が「第一号」だったためです。自動車そのものがめずらしい時代だったので非常に注目され、かなりの宣伝効果だったようです。

昭和に入るとビール業界で激しい競争が起こりましたが、1942年に社長に就任すると、会社を業界第一位に押し上げました。

また、教育に対する思いも強く、1953年、故郷である島根県倉吉市に「財団法人三松奨学育英会」を設立。1963年には母校の一橋大学に4階建て80室の「磯野研究館」を寄贈しました。

これらの功績が認められ、社会・公共のために功労がある方に授与される勲三等瑞宝章と倉吉名誉市民の称号を授与されています。


 

(2)正田貞一郎(1870-1961) 日清製粉社長、東武鉄道会長、貴族院議員、皇后美智子様の祖父

 

日清製粉グループ本社ビル
画像出典元:TOKYOビル景

うどん、パン、唐揚げ、お好み焼き、パスタ、ピザ—これらの料理を作るのに欠かせない物といえば、小麦粉です。その小麦粉の国内流通シェア4割を占めるトップメーカー、日清製粉の社長を務めた正田貞一郎(しょうだ ていいちろう)氏も高等商業学校の卒業生です。

卒業後は実家である正田家が始めた醤油醸造業を手伝っていましたが、地元の群馬県館林で水車製粉が盛んに行われていたこともあって、1900年に館林製粉を設立しました。館林製粉では輸入物に対抗するため機械製粉を行っていたのですが、これは当時としては非常にめずらしいことだったようで、機械もアメリカからの輸入物。操業を開始するだけでも相当の期間を要したようです。

また、正田貞一郎氏は経営者として積極的に合併、買収を活用しました。実は「日清製粉」という会社もそもそもは正田氏がたちあげたものではなく、館林製粉と合併させ、その名前を残した企業なのです。

正田家といえば今上天皇のお后である美智子様の生家としても有名です。貞一郎氏の三男である正田英三郎氏が美智子様の実父に当たります。ちなみに英三郎氏も一橋大学の前身東京商科大学の出身です。

(3)森泰吉郎(1904-1993)森ビル創業者、横浜市立大学教授

 

p9037793-500x375

六本木ヒルズやラフォーレ原宿でおなじみの総合ディベロッパー「森ビル」。その創業者であり、数々の再開発事業を成功させた森泰吉郎(もり たいきちろう)氏は一橋大学の前身、東京商科大学の卒業生です。

森氏が「森不動産」を創業し、不動産業に本格的に取り組んだのは1955年であり、すでに50代でした。ではそれまで何をしていたのかというと、実は大学卒業後、高校や大学で教鞭をとっていたのです。1954年には、現在の横浜市立大学商学部長の職についています。つまり森氏は学者と不動産業者という二足のわらじを履いていたことになります。森氏の事業には自身の学者としてのインフレ予測や需要予測が色濃く反映されています。例えば、戦後のハイパーインフレを予測して、現金をレーヨン市場に投入しそこで莫大な利益をあげ不動産業のもとでとなる資金を得たり、当時まだ少なかった空調設備付きの賃貸ビルなど外国法人の需要にもたえうる価値の高い不動産を建設していったのです。森氏の経営は学問の実践でもあったようです。

 

(4)野田岩次郎(1897-1988) ホテルオークラ社長

07dde39528afaba14502fc2728512304_s

日本を代表するホテルとして国際的に評価される「ホテルオークラ」を創業した野田岩次郎(のだ いわじろう)氏も一橋大学の前身、東京高等商業学校の卒業生。

野田氏は大学卒業後、三井物産に入社しシアトル支店に所属、現地でアメリカ人弁護士の娘と結婚しました。しかし当時は国際結婚に対する周囲の偏見があり、三井物産を他社し転職することを余儀なくされました。また、1943年には太平洋戦争のあおりを受けて、家族を残したまま強制帰国させられました。

日本で終戦を迎えた野田氏は三井銀行OBの小林一三氏の推薦により持株整理委員会に加わって財閥解体に取り組み、その仕事を終えた後の1959年、ホテルオークラの前身で大倉喜七郎氏によって設立された「大成観光株式会社」社長に就任しました。実は大倉喜七郎氏は帝国ホテル創業家である大倉財閥の2代目総裁です。なぜ帝国ホテルの経営者がホテルオークラをつくったのかというと、この大倉財閥は公職追放と財閥解体の憂き目にあい、事業のほとんどを手放していたからです。ホテル事業に特に思い入れのあった喜七郎氏は帝国ホテルに匹敵するホテルを建設することを目指して、野田氏を社長に据えたのです。野田氏はビジネスマン時代の経験を経営にいかし、単に西洋を範とするのではなく、日本古来のクラッシックなホテルを作り上げていきました。

1962年にはホテルオークラが開業し、当初からIMF等の国際会議、外国要人の宿泊に利用され、今日にいたるまで日本のホテルの顔としての役割を果たしています。


 

まとめ

  • 一橋大学はもともと私設の「商法講習所」だった。
  • 一橋大学の教育は「産業界のリーダーを育成すること」を目的としている。

 

経済学、商学などの実学を学ぶことは先行きの見えない今日においてとても大切なことです。みなさんも一橋大学を目指してみてはいかがでしょうか。